2000年からスローデザイン研究会を立上げ、ストローベイル・ハウスの研究と国内での普及に取り組み、ナマケモノ倶楽部と連携しながら様々なスロームーブメントを牽引してこられた建築家・大岩剛一先生(スローデザイン研究会代表)。フィールドワークを通して地域や人を深く見つめ、これまで多くのストローベイル・ハウスを設計してこられましたが、昨年2019年4月28日、最後の作品となった自邸「藁舎」にて、ご逝去されたことをご報告致します。
これまでスローデザイン研究会は本当に多くの方に惜しみないご協力を頂きました。ボランティアでワークショップに参加してくださった皆様をはじめ、農業、林業、建設業の方、研究調査の先々で出会った方、出版関係、大学関係の方、建築家や研究者の方など、様々な方にお世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。また、ストローベイル・ハウスの魅力に共感し、前向きに建設に踏み切ってくださった建て主の皆様には重ねてお礼申し上げます。
「ストローベイル・ハウスは単なる欧米のまねではなく、『わらの家』を通して自分たちの足元と地域を見つめなおす家づくりを広めよう。」
私達は大岩剛一先生と仕事をする中で、共に学び、様々なプロジェクトで多くの示唆に富んだ経験を積み重ねることができました。今後はその経験と志を胸に、新しいスローデザイン研究会としてスタート致します。
これまでのテーマ「住」に加え、それをとりまく様々なモノづくりや、研究・調査にジャンルを広げて「スローデザイン」を捉え、メンバーの活動や暮らしを通した情報を共有・発信できればと思います。
これまで支えてくださった皆様には感謝の意を捧げますと共に、これからの活動もご支援いただけると幸いです。
最後に、大岩剛一先生がこよなく敬愛され、共に活動を行ってこられた弟様、文化人類学者・辻信一氏の追悼文を、大岩剛一先生へ、感謝の気持ちを込めて引用掲載致します。
大岩剛一先生、ありがとうございました。
2020年10月 スローデザイン研究会一同
(以下追悼文はNGOナマケモノ倶楽部の会員宛に書かれたものです)
ナマケモノ倶楽部創設メンバーの一人であり、長年、スロームーブメントを共に担ってきた同志、設計建築士、建築学者、地域学者であり、わが敬愛する兄である大岩剛一が、4月28日、逝去したことをここに深い悲しみとともにお知らせします。
ぼくにとって、彼のいないナマケモノ倶楽部とスロー運動はあり得ませんでした。エクアドルの北部沿岸のマングローブ地帯での活動の中で、ナマケモノという素晴らしい動物に出会い、魂を揺り動かされた時も彼と一緒でした。ナマクラ創設後間もなく、共にオーストラリアやアメリカを旅して、ストローベイルをはじめとするエコロジカルな建築について調査した時も一緒でした。それらの経験を、彼はそれまでの30年に及ぶ設計士としての実践や、建築学や地域学の研究と融合して、スローデザインという分野を切り拓きました。同様に、彼にとってのこの20年もナマクラなしには語れません。エコでフェアで平和な世界を目指すその運動の一員であることを彼は常に誇りにしていました。
3年前、大学教員としての仕事場であり、彼の地域学の研究フィールドでもあった滋賀県の湖西地方に妻のゆりさんと共に移住することを決意、自ら設計した家を建て、「藁舎(わらや)」と名づけます。その名の通り、稲わらのストローベイルや琵琶湖の葦の壁を持つ家です。
彼の身体を蝕み始めていた腫瘍が発見されたのはちょうどその頃のことでした。それからの月日は、通常の人生の苦しさや哀しさ、そして歓びを何倍にも濃縮したような、深く豊かな時間だったに違いありません。それこそが「スローライフ」の真の意味だというような。3年かけてやっと、生物多様性を体現するような、小さな森へと育っていくはずの庭が完成し、花と新緑の季節を迎えたのを見届けるように、彼は旅立ちました。
4月1日のエイプリル・フールに、病院を退院、生き続け、そして死にゆく場所としての自宅に、そして愛する家族、友人たち、隣人たちの元に戻りました。早速、ぼくは彼の頼みで、ブータンから彼が持ち帰ったルンタ(風の馬の意)と呼ばれる五色の祈祷旗を三本の庭木の間に張りました。その作業を見守りながら、あれこれ指示を出す彼のこだわりようは、今思えば、まるで画竜点睛の故事のように、この「風の馬」の登場をもって、彼の住処という作品が完結するとでもいうかのようでした。
その日の夜だったと思います。彼は夢の中で、空を駆ける馬になりました。それがあまりにリアルだったのでしょう、目覚めた時に彼は、随分走ってくたびれた、と言ったそうです。
同じ頃、彼はその同じ家に親族や友人たちを招いて、彼なりの「生前葬」である「スローデスと花見の宴」を催すことを決意します。これがその時の招待状です。
スローデス・花見の宴へのお誘い
旅立ちの時が緩やかスローに近づいています。愛する家族や友人たちの祈りに包まれながら、ぼくは生き続けるための努力の傍らで、今生に別れを告げる準備を始めています。この度、ようやく庭も完成した琵琶湖西岸の我が家、「藁舎わらや」にて、ささやかな宴を開く運びとなりました。自然の恵みの塊のようなこの住まいに集い、春の花々を楽しみながら、私たちがこうして生きてきたこと、そしてその中で奇跡のように出会ったことをただただ祝福したいのです。これは、ずっとわがままに生きてきたぼくらしいわがままだと思ってご容赦ください。あまりにも急なお知らせで、ご都合がつかないという方も多いことでしょう。どうか無理をなさらないでください。くれぐれも来られないことで自分を責めたり、苦にされたりしないように。心と魂で繋がってくださればそれで十分。このお知らせそのものが、ぼくの人生をこれほどに豊かで美しいものにしてくれたあなたへの感謝の表現なのです。本当に、本当にありがとう。
愛と感謝を込めて 大岩剛一
彼はぼくがタイから持参した「Happy Death Day」のTシャツを着ました。中村隆市さんや二葉テリーさんはじめナマケモノ倶楽部ゆかりの友人たちも参加してくれました。
当日参加した30余名の親族や友人たちを前に彼が語ったように、そして自分自身に言い聞かせていたように、それが区切りの日となりました。峠を越えて急な坂道を下りはじめたかのように、その日を境に彼は衰弱していきます。
4月の4週間を通じて多くの人々が、まさに終わろうとしている彼の人生を祝福するかのように、藁舎を訪れました。人ばかりではありません。
旅立ちを目前にして、ホース・セラピストの友人寄田勝彦さんが、突然白馬を連れて現れました。バルコニーに乗って介護ベッドに近づいたその馬に、兄は目を見開きながら、不自由な腕をなんとか伸ばしてその顔に触れたのでした。それが「お迎え」で、彼は本当に馬に乗って空へと飛びたっていったのだ。そう思えたのは、寄田さんとぼくだけではなかったのです。
ゴーイチという自分の名前と縁の深い(?)日を選んだかのように兄の遺体は荼毘にふされました。それは藁舎にほど近い、蓬莱山と琵琶湖に挟まれた美しい火葬場でした。
辻信一